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THE END OF THE AFFAIR

デイビット・セダリス
朗読:榎木淳弥

ある夏の日の夕べ、ヒューと僕は、パリで、グラハム・グリーンの小説をニール・ジョーダンが映画化した『ことの終わり』を観に行った。疲れていた僕は、映画に没頭できず、目を開けているので必死だった。ヒューも必死で目を開けていた––––というのも彼は最初から最後まで泣きっぱなしで、劇場を出る頃には完全な脱水症状になっていたからだ。いつもコメディを観て泣くのかと訊くと、ヒューは、無神経すぎるよと言って僕を非難した。今も、その容疑をなんとかして、感じが悪い人だったくらいにしてもらおうとしている。

 今にして思えば、恋愛映画にヒューを連れて行くべきではなかった。そういう映画はいつだって危険なのだ––––宇宙人と戦ったり、連続殺人犯を追跡するために潜入捜査したりするのとは違って、恋に落ちるというのは、ほとんどの大人が、人生のどこかで経験することだから。この普遍的なテーマは、観る人に不健全な比較をさせ、究極的には「なぜ私たちの人生はああならないのか」という疑問を持たせる。まさに開けずにいるのが一番いい箱で、この箱を避けるせいで、ヴァンパイアやアクションが登場するような豪華絢爛な大作映画が人気を博し続けているのだ。

 『ことの終わり』は、僕を完全に嫌なやつにした。主演のレイフ・ファインズとジュリアン・ムーアが演じる貧欲なカップルは、ありとあらゆることをやっていた––––お互いを食べ合う以外のことならなんでも。ふたりの愛は絶望の運命にあり、秘密にしていなければならなかったが、空から爆弾が落ちてくるときでさえ、彼らは輝いていた。かなり高尚(ハイブラウ)な映画だったので、テレビで流れるような映画でよく目にする仕掛けが使われているのには驚いた。すべてが順調に進んでいるときに、登場人物の一人が咳かくしゃみをしはじめ、二十分以内に死んでしまうというものだ。ジュリアン・ムーアが突然目から血を流し出すならまだしも、咳はあまりにありきたりだった。それなのに彼女が咳をすると、ヒューは泣いた。僕が同じように咳をすると、彼はあっちに行ってよと言うみたいに、僕の肩を軽く殴った。「彼女が死ぬのが待ちきれないね」と僕は囁いた。その美貌のせいなのか、情熱のせいなのかはわからないが、ジュリアン・ムーアとレイフ・ファインズには、どこかこちらが身構えてしまうところがあった。

 僕はヒューに非難されるほど冷たくはないけれど、十年以上も一緒にいるといろいろ変わるものだ。長年連れ添ったカップルの映画がほとんど作られないのには、理由がある––––僕らの人生は退屈だからだ。恋愛している間は、素晴らしい瞬間がいくつもあったけれど、今ではMr.プレディクタブル(ありきたりな人たち)パートIIになってしまい、まともな人はお金を払ってまで観ようとは思わない(「見て! ふたりが電気料金の請求書を開けようとしてるよ!」なんて言うことになるからだ)。ヒューと僕はかなり長いこと一緒にいるので、並外れた情熱を呼び起こすには、体を使った戦闘を繰り広げなければならない。以前、彼に割れたワイングラスで後頭部を殴られたとき、気絶したふりをして床に倒れたことがあった。あれはロマンチックだった……、いや、ヒューが僕の体を踏み越えてちりとりを取りに行かず、駆け寄ってくれていたら、ロマンチックになったのかもしれない。 

 つまらない人間だと思われるかもしれないが、未だに僕は、ヒュー以外に一緒にいたいと思える人がいないのだ。ふたりにとって最悪な日でも、物事は勝手に解決し、最後にはいつもなんとかなるだろうと思っていて、そうでなければ、問題になっていることについて、あまり考えないようにしている。僕たちはふたりとも、人前でいちゃついたりはしない。そういうタイプではないのだ。パペット人形を使わないと愛を告白すらできないし、あえてふたりの関係について話し合うこともない。これは、僕にとっては都合の良いことで、ヒューもそれでよかった––––あの忌々しい映画を観て、他の選択肢があると気づくまでは。

 

 十時頃に映画が終わると、僕たちはリュクサンブール公園の向かいにある小さな店に、コーヒーを飲みに行った。僕はもうあの映画のことは忘れようと思っていたが、ヒューはまだ魔法にかかったままだった。まるで、自分の人生が通り過ぎていっただけでなく、途中で立ち止まり、面と向かって唾を吐きかけてきたみたいな顔をしていた。コーヒーが運ばれてきて、彼がナプキンで鼻をかんでいる間、僕は明るい面を見ようと言って励ました。「いいかい、僕らは戦時中のロンドンには住んでいないかもしれないけど、時々爆弾騒ぎが起こるっていう点では、パリも同じようなものじゃないか。君も僕もベーコンとカントリーミュージックが大好きで、これ以上何を望むって言うんだ?」

 これ以上、何を望むって言うんだ? なんて、信じられないほどくだらない質問だったが、答えられずにいるヒューを前に、僕は自分がいかに幸運であるか思い知った。映画の登場人物は、霧のなかで追いかけ合ったり、燃え盛る建物の階段を駆け下りたりするかもしれないが、そんなのアマチュアがすることだ。真の愛とは、相手を傷つける絶好のタイミングが訪れても、本当のことは言わずにいられること。と、そんなようなことを言おうとしたけれど、パペット人形は家の引き出しの中だ。その代わりに、僕は数センチ椅子をヒューのほうに引き寄せた。黙ったまま広場の小さなテーブルで座る僕らは、世界でもっとも愛し合っているふたりに見えた。

榎木淳弥(えのき じゅんや)

10月19日生まれ。東京都出身。
『呪術廻戦』虎杖悠仁役、『惑星のさみだれ』雨宮夕日役、『アオアシ』本木遊馬役、『ジョジョの奇妙な冒険 黄金の風』パンナコッタ・フーゴ役、『東京リベンジャーズ』乾青宗役、劇場アニメーション『機動戦士ガンダムNT』ヨナ・バシュタ役など。
映画『スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム』をはじめ、マーベル・シネマティック・ユニバース シリーズでは、トム・ホランド演じるピーター・パーカー/スパイダーマンの吹き替えも担当している。
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